野球殿堂入り 斉藤雅樹氏の開花の裏に恩師との出会い! [スポーツ]
平成の大エースがついに殿堂入りを果たしました。
今年の野球殿堂入りが1月18日発表されましたが、
巨人で沢村賞を3度受賞した斎藤雅樹2軍監督が選ばれました。
昨年も有力候補だったのですが、
当選必要数に3票足りず惜しくも落選した経緯があります。
2008年に候補となってから今年で9年目。
今回は当選ラインを32票上回る285票を集めました。
斎藤雅樹さんが平成の大エースと呼ばれるまでになるには、
藤田元司さんとの出会いが大きなきっかけとなっています。
まずは1年目の5月。
多摩川グラウンドでの2軍練習を当時1軍監督だった藤田元司氏が視察に訪れ、
その時にサイドスローへの転向を命じられたといいます。
もともと、斎藤さんは打撃も得意で、当時は野手転向の話もあった。
腰の回転が横だった、というのがサイドスロー転向の理由だったそうです。
この出会いがなければ、投手・斎藤雅樹はなかったかもしれません。
その後、一軍と二軍を行ったり来たりするレベルにとどまっていた斎藤投手でしたが、
1989年に巨人の監督に復帰した藤田氏との再会が、彼に大きく影響しました。
ノミの心臓で気が弱いという評価などから、
前任の王監督は「斎藤は先発には向かない。」などとしていたようでした。
しかし、藤田監督は斎藤投手に対し、
「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」、
「怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」
などと諭し先発で起用し続けました。
その結果、才能が開花。
横手からの140km/h超の威力あるストレート、鋭いカーブとシンカーを武器に、
3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成しました。
その年は20勝して最多勝利投手に。
翌年も20勝していますが、2年連続の20勝投手は、この年の齋藤投手以降は現れていません。
このことから、斎藤投手は、
「平成の大エース」「ミスター完投」と呼ばれるようになりました。
やはり、人との出会いが人間を大きく変えるのですね。
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今年の野球殿堂入りが1月18日発表されましたが、
巨人で沢村賞を3度受賞した斎藤雅樹2軍監督が選ばれました。
昨年も有力候補だったのですが、
当選必要数に3票足りず惜しくも落選した経緯があります。
2008年に候補となってから今年で9年目。
今回は当選ラインを32票上回る285票を集めました。
斎藤雅樹さんが平成の大エースと呼ばれるまでになるには、
藤田元司さんとの出会いが大きなきっかけとなっています。
まずは1年目の5月。
多摩川グラウンドでの2軍練習を当時1軍監督だった藤田元司氏が視察に訪れ、
その時にサイドスローへの転向を命じられたといいます。
もともと、斎藤さんは打撃も得意で、当時は野手転向の話もあった。
腰の回転が横だった、というのがサイドスロー転向の理由だったそうです。
この出会いがなければ、投手・斎藤雅樹はなかったかもしれません。
その後、一軍と二軍を行ったり来たりするレベルにとどまっていた斎藤投手でしたが、
1989年に巨人の監督に復帰した藤田氏との再会が、彼に大きく影響しました。
ノミの心臓で気が弱いという評価などから、
前任の王監督は「斎藤は先発には向かない。」などとしていたようでした。
しかし、藤田監督は斎藤投手に対し、
「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」、
「怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」
などと諭し先発で起用し続けました。
その結果、才能が開花。
横手からの140km/h超の威力あるストレート、鋭いカーブとシンカーを武器に、
3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成しました。
その年は20勝して最多勝利投手に。
翌年も20勝していますが、2年連続の20勝投手は、この年の齋藤投手以降は現れていません。
このことから、斎藤投手は、
「平成の大エース」「ミスター完投」と呼ばれるようになりました。
やはり、人との出会いが人間を大きく変えるのですね。
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2016-01-19 23:38
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